瀘沽湖を歩いて一周する

ダニの攻撃で寝不足だが、翌朝は6時に宿を出発する。まだ外は真っ暗だ。"サマータイム制"である事を引いても暗すぎる。
ここは中国の西南部、せいぜい4時位が本当の時間だろう。広い中国ゆえ、時間まで北京と一緒にされてはたまらない。
だから中国では田舎に行くと「老時間」という地元の時間が用いられているが、
バスの時刻表やラジオ放送などは北京時間のままなのだ。
雲南省の旅行では、朝方まだ暗いうちに汽車站(バス駅)に向かうことが多いが、
気をつけないと道路に穴が開いていたり、水たまりにはまったり、水牛の糞を踏んだりするので大変だ。経験された方も多いのではないだろうか。
また、朝のラジオ放送も迷惑である。たとえば西双版納の田舎町でのんびり寝ていると、電柱の拡声器から突然大きな音で、
「ピーッ、ピーッ、ピーッ、ピーッ、ピーッ、プーッ」とブザー音が鳴り、割れた音で「ベイジンシージェン、リュウディエンジョン(北京時間6時)」という声に続いて
国歌やら革命歌やらプロパガンダ放送が流れるのだ。うんざりして外を見るとまだ真っ暗ということがある。
幸い、ここではそのような「嫌がらせ放送」は無い。
電気が通っていないので助かった。とても静かな朝である。

身支度をして、夜明けの少し前に歩き始める。瀘沽湖は静寂に包まれていた。 反時計回りにしばらく歩くと、四川側の山の彼方から夜が明けはじめた。漆黒から濃い紫色へとだんだん色が変化してゆく。 雲に太陽が反射して瀘沽湖を照らし、とても幻想的だ。
紫色に光る湖面の上を丸木舟が行きかう。 ずいぶん朝早くから漁をしているものだ。遠くで網を投げる様子がシルエットになって見える。 しばし自然が織り成す光の世界に見とれていた。こんなに素敵な朝の光景を独り占めするなんて勿体無い。
早起きは三文の徳というが、金に換えられない経験だ。おそらく瀘沽湖の女神「ガンム」が微笑んでくれたのだろう。 感謝の意を込めて、雲から姿を現した獅子山(女神の化身)に手を合わせた。
もし皆さんが7月に瀘沽湖を訪れるのであれば、ぜひ早起きする事をお薦めする。きっと「美しい朝」を経験できることだろう。
犬に襲われる

これが少数民族の地を旅する際に、最も気をつけなくてはならない点である。 ペットではなく番犬として飼われているので、よそ者には容赦が無い。雲南の旅ではよく遭遇するのだが、たいていは大声で人を呼ぶと村人が出て来て追い払ってくれる。犬は村人には絶対服従だ。
以前、ハニ族の村でも犬に襲われたことがあるが、この時は5歳くらいの子供に助けられた。牙をむき出して私を威嚇する犬の横腹をその子が蹴ると、犬はキャインと鳴いて逃げていったのだ。 反対に村人の助けがないと事態は深刻になる。この時もそうだった。

大声を出しても村の人は出て来ない。仕方なく後ずさりして少しずつ村から遠ざかったのだが、いつの間にか犬が増え、ついには数匹に囲まれてしまった。"最悪の状況"である。 これまでで最も緊迫した状況となってしまった。。
どうやって危機をしのいだのかというと、カメラの三脚と石ころである。 後ずさりしながら三脚の脚を伸ばし、クルクル回して応戦しながら石を拾って投げつけるという方法で何とか助かった。 犬が噛み付こうとする際の「カツッ、カツッ」という歯の音がたまらなく怖かった。
私は以来、少数民族の村を初めて訪ねる時は護身をかねて三脚を伸ばした状態で持っていくようにしている。 2回目以降の訪問では犬もわかるらしく、吠えはしてもそれほど攻撃はしてこないものだ。 ともあれ、噛まれたら狂犬病に感染する可能性がある。気をつけなければならない。
モソ人の母系社会について

互いをそう呼び合うことから「阿肖(アシャオ)婚」、または「阿注(アチュ)婚」ともいわれる。 「アシャオ」とは「宿を共にする友達」の意味だ。「アチュ」とはもともと普米族の言葉で「友達」の意味だが、 やはり性生活を伴う相手に用いるもので、一般的な友達に対する場合は「朋友」が使われている。
「阿肖婚」の形態は複雑で、一夫多妻制もあれば一妻多夫制もあり、四川省の卡瓦(カワ)村に住むモソ人には、夜になると女性が男性を訪ね、朝になると帰るという「安達制度」 と呼ばれる形態もある。安達(アンダ)とは「眠る友達」の意味で、これなどは一種の群婚の名残であるという。

20世紀初めの頃は永寧納西族だけでなく、普米族との間にも頻繁に「走婚」がおこなわれていたそうだ。 そういえば普米族とモソ人は民族衣装が良く似ている。
また後述するが、瀘沽湖の四川省側に住む「蒙古族」の生活習慣や服装などもモソ人と同じである。「ラマ教」を信仰し、言葉も一緒だ。 雲南側の人から言わせると、「もともと彼らも我々と同じモソ人なのに、勝手に蒙古族と名のっているのだ」とのことだが、真偽は明らかではない。
長らく続いてきた「走婚」の習慣だが、中国の解放、さらに文化大革命の大波がこの地にもやって来た。その影響はかなり大きかったであろう。 現在では「阿肖婚」の他に「阿肖同居婚」、そして「正式結婚」をしているモソ人も大勢いる。また「走婚」は瀘沽湖よりも永寧のほうが多く残っているそうである。
彝族の人たち

1962年の冬に民族調査のために瀘沽湖に入った人達は、麗江から馬に荷を乗せ、徒歩で10日間かけてたどりついたそうだ。 連なる山をいくつも越え、野営をして、やっとの思いで瀘沽湖を目にした時、彼らの感動はどれほどだったろうか。桃源郷のような風景に見とれつつ、 そんなエピソードを思い出した。
地べたに座ってビスケットとお茶で軽食をとっていると、彼方から小涼山彝(イ)族の人達がやって来た。 すぐ隣に座り、私が食べているのをジッと見ているので、「食べますか?」と言うと笑って首を振った。
そして、「どこへ行くのだ?」と聞いてきた。「瀘沽湖を一周しているんです」。「どこから来た?」、「昆明からです」。「漢族か?」、「いいえ、日本人です」。「日本は遠いか?」、「かなり遠いです」。

そして彼らに、「昆明に帰ったら写真を送るので住所を教えて下さい」と言ったのだが、誰も字の読み書きが出来ないし、それに郵便は届かないという。 「では次回、私が瀘沽湖に来たときに、彝族の人に会ったら渡しておきましょうか?」、「それがいい」、ということになった。
しばらく彼らと一緒に歩き、やがてある村の手前で、彼らは右の山方面に登って行き、私は左方面の「草海」といわれる湿地帯を目指した。
どこに行くの?

そして面白いことに、こちらから「どこへ行くの」と声をかけても話が成立するのだ。 畑仕事をしている人から「どこへ行くの」と聞かれたので、こちらの行き先を告げたあとに、「ナイク」と聞き返したら、「私はここで畑仕事をしている」と答えたのだ。 その後も人と会うたびに「どこへ行くの」と聞くと、「仕事中だ」とか「家に帰る途中」、「子供と遊んでいる」などの返答があった。 その中には、ただ「ここにいる」という返事もあり、「どこに行くの」という問いかけは、その場に留まっている人に対しても有効なことがわかった。
もちろん、彼らは私を漢族だと思って標準語で話しかけているわけだが、これは実に良い挨拶だと思った。 他人との係わりが希薄になった日本社会とは大違いである。

あるモソ人の村では子供たちが集まってきた。おっかなびっくりしながら私を取り巻き、しばらくついて来たが、カメラを向けた途端に 蜘蛛の子を散らしたように逃げていった。そのくせ、少し離れると「撮って」というポーズをするのだ。そしてまたカメラを向けると 恥ずかしがって顔をかごに隠してしまった。でも、みんな大喜びだ。
どの子も裸足で走り回っている。「元気だな」と感心したが、よく見ると誰もが「かご」を持っていて、野菜を背負っている子供もいる。

こんな小さい子供まで働いているという、厳しい現実を見せつけられて複雑な気持ちになるが、彼らの明るい笑顔が唯一の救いだ。 少数民族の子供は労働の担い手にされている事が多く、雲南を旅していると度々見かける。
モソ人村のおばあさんは、「孫を撮ってくれ」と言って、フルチンの子供にポーズをとらせた。 また、ある男性からは、「カメラを持ったことがないので、自分に撮らせて欲しい」と頼まれたので、 あらかじめシャッター速度と絞り、それにピントを合わせておいてからカメラを彼に渡した。 カシャッとシャッターが切れると、彼は満足そうに笑って去っていった。
後に彼が写したカットを見てみると、初めて撮ったにしてはなかなかの写真だった。


自分が誰かから撮られた写真というのは案外と記憶に残らないもので、後で見たらとても感慨深いものがあった。これも良い記念だ。
歩いて旅をすると、実に多くの出会いがある。旅人の歩く速度は、土地の人が営む速度と交じりやすいのだろう。 だから私は歩く旅が好きだ。現地の交通が不便であればあるほど、歩く旅の魅力は増していく。 そしてその魅力とは、「人の出会い」である。向こうが徒歩でこちらも徒歩ならば、たとえ行き交うだけでも会話が生まれるものだ。 どちらかが車やバイクであったら通り過ぎるだけである。挨拶も出来ない。
私にとって旅の最大の魅力とは「人の出会い」に他ならない。 そして雲南省には、是非歩いて旅をしたい場所がまだ沢山ある。
