瀘沽湖旅行記 1990 (6ページ)

とうとう憧れの瀘沽湖(ルグフ・泸沽湖)にやって来た。雲南省と四川省の境にあり、海抜は約2700メートル。
美しい湖とそそり立つ獅子山、母系社会の習慣を残す納西族系モソ人たちの暮らす地である。
彼らは瀘沽湖のことをシェナミと呼ぶ。母なる海という意味である。
獅子山は伝説の女神「ガンム」の化身とされている。
毎年陰暦の7月25日には、山麓で女神祭が行なわれる。
そして女性が中心となる原始的社会制の風習を残している。
これらが「女人国」と呼ばれるゆえんである。
瀘沽湖への道のりは遠かった。昆明から大理経由で寧蒗まで3日。
麗江から北はまだ"未開放"である。
そして寧蒗から瀘沽湖へのバスは2日に1本しか運行していないので、運が悪いと昆明から5日もかかってしまう。
さらに寧蒗から瀘沽湖(落水)までの道はかなりの悪路で危険だ。
よく車が崖から落ちるそうで、これではまだしばらく対外開放はできないだろう。
私の乗ったバス(ポンコツ雲南号)は寧蒗から落水までの道のり72キロメートルに5時間半もかかった。
体がフラフラになる程の悪路ではあったが、神秘的な瀘沽湖が視界に入った途端、疲れも吹き飛んでしまったようだ。
静かな落水の集落

観光用ではない、生活に密着した「本来の民族の姿」がここにはまだ残っていた。 また、違う民族衣装の人たちもいたので尋ねてみると、こちらは普米族とのこと。
昨年(1989年)に昆明で行なわれた「第4回雲南少数民族伝統体育運動会」には雲南省各地から少数民族が集結し、さまざまな民族衣装の美しさに目を見張ったものだが、その時とは違う「日常的民族衣装」である。
きらびやかではないけれど、それぞれ民族特有の着こなし感があって、私は好きだ。 本来、民族衣装というものは、その民族がいちばん美しく見えるように作られている。 服装が「漢化」していくのは実に惜しい。彼ら少数民族の「伝統」・「シンボル」としていつまでも残ってほしいと思う。

落水には普米旅社、曹家旅社、摩梭飯店と旅社(簡易宿)が3軒あり、モソ人住居を客室にしたログハウス風の小屋で、少数民族の「趣」を感じる。 どの旅社も客はいなくて閑散とした雰囲気だが、ふだん人の多さに辟易する中国において、この静けさは実に味わいがある。
こんなにロケーションが良いのに田舎すぎて客引きはおろか、宿の人は商売っ気がまるで無い。 とりあえず、部屋の窓から瀘沽湖が望める曹家旅社に泊まることにした。実はこれが「大失敗」だったのだが、それは後ほど。
絶品の魚料理
この旅社には食堂も併設されている。腹が空いていたので食事を所望すると、「魚が美味い」とのこと。さっそくお願いした。 雲南でおいしい魚にありつけるとは幸運だ。しかし、食材は「魚」のみであった。中国の田舎ではよくあることだが、流通の不便さゆえ食材の調達が大変で、ここでも魚は食べられるが野菜類は全く無い。 もちろん肉も無い。モソ人は豚の塩漬けを乾燥させた「猪瓢肉」というのを食べるが、旅社で日常的に食べれるものではない。
だからであろうか、たまに歩いて野菜や肉を商う人を見かけた。私も「野菜売り」のおばさんから鶏卵とネギを調達し、あとで調理してもらった。
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食べてみると、これが実に美味い。瀘沽湖の水がきれいなせいか、臭みがない。 久しぶりにまともな魚が食べられて満足した。
私達が失ったもの

彼らの家は湖面ぎりぎりの所に建っているので、寒さや湿気、あるいは水害は大丈夫なのかと思うが、長年こうして暮らしてきたのだから問題は無いのだろう。
湖辺には「猪槽船」と呼ばれる丸木舟が並び、近くをアヒルが群れで泳いでいる。水うち際では、鶏がヒナたちを連れて藻を食べるのに忙しい。 豚もやって来て体まで水につかり、フガフガと水草を一気に食べてしまった。
網の手入れをする人、舟に上がって遊ぶ子供たち、遠くには漁をする舟、 実にいい眺めだ。民族衣装のおばあさんも歩きながら水草を採っていた。きっと家畜のえさにするのだろう。 おじいさんもゆっくりと散歩中。牛もゆっくり歩いている。
気候も雰囲気も異なるが、西双版納と同様の長閑さをここでも感じる。彼らの平穏な毎日がいつまでも続いて欲しい。 今では貴重な「パラダイス」のひとつなのだから。
モソ人とは

また7世紀末、現在の大理がある洱海沿岸に六つの部族連合があり、それぞれの長が"詔"(しょう)と称したことから六詔と呼ばれていた。 詔とは羌族の言葉(またはタイ系の言葉)で王の意味。そのうちの「施浪詔」は白蛮系の白族の国、「蒙舎詔」は烏蛮系の彝族だそうで、 いちばん北にあった「越析詔」というのが別名を「磨些(モソ)詔」といい、モソとは納西族の古名を指すそうである。
モソは雲南と四川の両省に分布しており、麗江付近は「ナシ」、瀘沽湖付近は「ナリ」、維西は「マリマシャ」等の自称を持っていたが、 中国解放後に「納西族」に統一された。

瀘沽湖のモソ人は麗江の納西族とはかなり印象が違う。ここは交通が不便至極、 そして長きにわたる封建領主制によって、却って母系社会制の習慣も残されたわけだから、モソという古い名称も自然と残ったのかもしれない。
ひょっとするとモソ人は古の北方遊牧系の「羌」や「氐」といった人々の名残をより色濃く留めているのかも・・・・・・。 静かな瀘沽湖を眺めていると自然とそんな考えが浮かんできて、しばし歴史ロマンに浸った。
猪槽船に乗る

彼らの伝説によると、瀘沽湖はもともと陸地であったが、洞窟から巨大な魚を引っぱり出した際に水が噴き出して全てを沈没させてしまい、 豚飼いの女だけが木製の餌箱に乗って命拾いをしたのだという。このときから舟は豚の餌箱に似せてつくられるようになったそうである。
「猪槽船」は3人で漕ぐ。そのうち1人は主に舵取りをする。 とりあえず乗るのが目的だったので、近くの蛇島まで往復してもらった。手作りの丸太舟は思ったよりもスーッと進む。 船上から眺める獅子山や集落の様子も違った印象になって楽しい。湖の中ほどでは投網で魚を獲っている人もいた。

「どうして蛇島という名前なのか」という問いには「蛇がたくさんいるから」とのこと、納得。 蛇島に上陸すると、ラマ教信仰らしく「タルチョ」がはためいている。 そして蛇は本当にいた。よく見ると黒くて細い蛇があちこちで動いている。
噛まれはしないだろうが、足元は草木が鬱蒼として見えにくいので少々不気味になり、 早々に引き返すことにした。短い時間ではあったが、楽しい舟旅になった。
それにしてもモソ人の女性は働き者だ。旅社の主人は女性だし、丸木舟を漕ぐのも女性、野良仕事から帰るのも女性だった。 確かに女性を中心とした社会制度であるから、それが普通なのかもしれない。別に女性が威張っているわけではないが、 モソ人の女性は体格の大きい人も多いし、よく働く。そこらの男じゃ太刀打ちできないなと思った。

そんな女性を射止めるためには、漁や農業の仕事がよく出来て、力持ちで、家畜の世話が上手で、山奥に何日も入って茸などを採りに行ける体力を持つ男性でなければならないのだろう。 都会から来た者などには何の魅力も感じないはずだ。
「女儿国」などというコピーは甘いイメージを想像しがちだが、 実際は厳しい環境の中で生き抜いてきた強い女性と強い男性であり、「走婚」とは種族を後世に残すための必死の手段だったのではないだろうか。
夜中の襲撃

静かで美しい夜を肴に白酒を飲んでいたら、ふと湖の向こう側にも行ってみたくなった。 まだ見知らぬ地では、どんな人達との出会いがあるのだろう。そう思ったら実行あるのみだ。 明日は歩いて瀘沽湖を一周してみることにした。2日もあれば充分回れるだろう。 「うむ、瀘沽湖は本当に良い所だ」、そう思いつつ眠りについたのだが・・・そいつは夜中にやって来た。
突然のかゆみに目が覚め、少し眠るとかゆくて目が覚め、ついには全く眠れなくなってしまった。 ダニである。やられた! 先ほど「大失敗だった」というのはこのことである。部屋も寝具も相当に汚れていたのだが、中国の田舎では仕方がない。 それでもダニに噛まれることは滅多にないのである。私の経験でもインド等に比べたら雲南はまだマシだ。 ただ、一旦噛まれるといつまでたってもかゆみが治まらないので辛い。
翌日、数えてみたら30ケ所以上も噛まれていた。 これぞ未開放地区の醍醐味?かもしれない。
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